西国三十三所観音霊場第2番目の札所/紀三井寺へ・・・
早起きをして、あまり参拝者もいない紀三井寺へ・・・、南 靖久議員や真井紀夫議員はすでに早い時間から出かけていたようである。
二十代となった頃に、この近くまで来て同行のほとんどが山門をくぐっていたのに、近くの喫茶店に入り仲間数人でコーヒーを飲み話し込んでいたことが記憶に残っていた。
若かったのであろう・・・、その頃はお寺さんなんどに興味もなく、ましてや信仰心など微塵もなかったように思う。
たぶん人生の岐路は、そのあと母が亡くなってからであろう。二十二才のときである。
第1番札所である那智山青岸渡寺へは、母の死後、何回となく行っているが、紀三井寺については気にしていたことから、「若き日に置き忘れたものを取りに来たが如く」早起きをしてなんとしても行きたかったのである。
紀三井寺の楼門から上に、231段の急な石段があります。参詣者泣かせの急坂ですが、この坂は、紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなり、それ以来「結縁坂(けちえんざか)」と呼ばれるようになりました。」 と紹介されています。商売繁盛、良縁成就、その他何事もまずは、信心からと申せましょう。また、あなたも、この人と結ばれたいという恋人が出来たら、この坂を登ると良いかもしれません。そして共に、観音様に心からなる願いをお掛け下さい。
還暦厄坂なるところもあり、しっかり踏みしめて登りました。
世の母はみな観音像なのである。
『紀三井寺は、今からおよそ1230年前昔、奈良朝時代、光仁天皇の宝亀元年(AD770)、唐僧・為光上人によって開基された霊刹です。
為光上人は、伝教の志篤く、身の危険もいとわず、波荒き東シナ海を渡って中国(当時の唐国)より到来されました。そして諸国を巡り、観音様の慈悲の光によって、人々の苦悩を救わんがため、仏法を弘められました。行脚の途次、たまたまこの地に至り、夜半名草山山頂あたりに霊光を観じられて翌日登山され、そこに千手観音様の尊像をご感得になりました。
上人は、この地こそ観音慈悲の霊場、仏法弘通の勝地なりとお歓びになり、十一面観世音菩薩像を、自ら一刀三札のもとに刻み、一字を建立して安置されました。それが紀三井寺の起こりとされています。』と紹介されています。
正式には「紀三井山金剛宝寺護国院(きみいさんこんごうほうじごこくいん)」という当時の名称を知る人は少なく、全国に「紀三井寺」の名で知られていますが、この紀三井寺とは、紀州にある、三つの井戸が有るお寺ということで名付けられたといわれ、今も境内には、清浄水(しょうじょうすい)、楊柳水(ようりゅうすい)、吉祥水(きっしょうすい)の三井より清水がこんこんと湧き出して、年中絶えることがありません。
(紀三井寺の三井水は昭和60年3月、環境庁より日本名水百選に選ばれました)紀三井寺ホームページより
寄木立像としては日本最大の仏像、総漆金箔大千手十一面観世音菩薩がある建物から見ると・・・、春には約1200本の桜が咲くようです。
「みあぐれば 桜しもうて 紀三井寺」と芭蕉が詠んでいます。
余談ですが、和歌山ではラーメンです。
醤油ラーメンでもかなり濃い。チャーシュウはやわらかい。
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by mikikazu82 | 2010-02-22 02:13 | ミキカズの四方山話