三鬼新八郎と三木浦町の歴史

 戦国時代に三木浦は四度も戦場になったことがあります。天正のはじめ新宮に突如として興った掘内安房守氏善が、天正二年(1574年)有馬(熊賄野市)の有馬和泉守一家を手中にし、その勢いをかって三木城へ攻めてきました。
 そのとき三木荘(旧北輪内・九鬼村)を治め、本城を三木浦に築城していたのが三鬼新八郎です。この三木城の本丸は東西12間・南北13間で、二の丸は50間に14間あり、ここは現在の三木小学絞の敷地といわれていますが、いまは海に突きでた城山だけが残っていて市の文化財(史跡)になっています。
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     (海に近い真ん中の森が三木城跡で、右上が三木小学校)
※現在でも城跡は南の海に向かっていますが、北側のそのうしろの森に稲荷神社があり、小学校の裏手の森に浅間神社が奉られています。そして、この裏手には、柿の木峠を境に早田浦に通ずる道があり、九鬼一族が堀内氏善と縁続きとなったことで、それまでの和睦が切れ、難攻不落の三木城はこの裏手から堀内氏善に攻められ、三鬼新八郎は滅ぼされたとされています。



 
 この三鬼氏の出自についてはよく分かりませんが、奈良県上北山村の坂本ではなかろうかと、上岡太郎先生が言われています。現在の坂本ダムのあるところです。上北山村はどの小集落でも武家の落人の多いところで三鬼氏も最初の姓は不明ですが、上北山村の坂本へ移住してからは坂本姓を名乗り、三木浦へきてからは三鬼姓を名乗ったものでしょう。
 天正三年掘内氏善が三木城へ攻めてきたときには、三木荘の九木浦には九鬼光隆がおり、またその弟の九鬼嘉隆(鳥羽城主)が水軍をひきいて鳥羽から来援し海陸の激戦となり、掘内方の木本(相賀)荘司や井土村の河ノ上など名のある武将を討ちとったため、掘内勢は一応新宮へ退却しました。
 そこで三鬼氏と九鬼氏が不和になるように掘内氏善は策をたて、九鬼嘉隆の娘を自分の妻に迎えました。そのため再び掘内氏善が三木城を攻めたときには、九鬼氏一族は三鬼氏を支援しませんでした。攻めよせる掘内氏善の大軍にはひとたまりもなく破れ、三鬼新入郎は上北山村の小瀬に逃げました。しかし掘内氏善の追求はきびしく小瀬の勘七郎を誘って味方にし、三鬼新入郎父子を殺させました。
 うまく三木城を入手した掘内氏善は、わずかな兵を残して新宮へ引きあげました。その手薄をねらって、長島の加藤甚五郎が赤羽の奥村新之丞と共に不意に三木城を攻め難なく城を入手し、そのまま加藤氏は三木城に居残っていました。
 三木城からのがれてきた番兵たちの報告をきいた掘内氏善は大いに怒り、三木城を取返えさんと準備し、翌天正四年に兵二千という大軍をひきいて三木城へ攻めのぼりました。このとき新宮・木本・九木などの熊野侍は、すべて掘内氏善に参加したといわれます。
 この時の戦は、堀内二千の兵が二手に分かれ、三木城の大手・搦手から攻めたて、矢砲をとばし石弓を放って戦いました。夜になってから攻め手の者たちが、城の裏手の山から城中へ夜討ちをかけましたので、守っていた加藤の軍勢は総くずれとなり、四方八方へ逃げて多数の死傷者を出しました。加藤甚五郎も生命からがらわずかの手兵に守られ、やっと長島城へ逃げかえることができた有様でした。しかし掘内氏善はこの勢いで長島城を攻め、それに赤羽の奥村氏を抱きこんだため、堀内・奥村に攻められた長島城は炎上し、甚五郎も遂に自刃してしまいました。
 このように四回も戦火をあびた地は三木浦以外にはありません。あとの二回の戦いは三木浦の住民にとっては甚だ迷惑なことで、戦いのたびに浦人たちも被害をうけ、犠牲になったわけです。
 三木荘を治めていた名将三鬼新入郎も、新宮の新興勢力の掘内氏善には抗すべくもなく、残念な最後をとげましたが、その子三鬼勘六は加藤肥後守に仕え、知行千石を領したといわれます。また三鬼新八郎ゆかりの坂本勘兵衝が三木浦に在住し、紀州藩から地士としての待遇を受けていましたことから、三木浦には勘兵衛の母の五輪塔も残っています。
 四回も城の奪取が行なわれたということは、三木浦が軍事の上から重要な地点であるということを意味していますが、三木浦は江戸期の海上交通の面からいっても重要な港湾であり、また漁業の面からみても素晴らしい港であったと言うことです。

(郷土館叢書第二集「おわせの浦村」S.52より) 

※三鬼新八郎の墓と言われる五輪塔が、上北山村にある南朝の末裔が祀られている龍川寺にある。(故)上岡太郎氏・記
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  by mikikazu82 | 2007-03-16 01:36 | 尾鷲よいとこ四方八方

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